社内通達に合わせてSNSの利用設定を色々変えました。
Blog、Facebookと記名のものは従来通りに責任をもって(過去は変えれませんがー)

それ以外のドス黒い(そんなものがあるのか)ものは葬り去るか、無記名で楽しめる範囲で。

45歳にもなっていつまでもSNSではなかろうし、近頃ではマイ餓鬼どもも自分で検索して読める時代だし、「うわ、父さんドン引き!」と想われるのもシャクです。


■「変わらないために変わり続ける」
福岡の先輩・河原社長から教えてもらった古からの教えです。
守る為には攻めなくちゃいけませんし、現状維持には改善が不可欠。
ぬるま湯だって放ったらかせば水になりますもんね。

SNSというのはある意味「ぬるま湯」です。
(そうであってほしい)

有用なものも無用なものもあり、刺激にできるかどうかは自分次第。
浸かっているとカゼをひきます。



■馬鹿も自分の足で立つ
馬も鹿も自分の足で立っていますから、誰かによりかからず、会社によりかからず、自分で立ってボチボチと進みます。
ま、ちょっと頭イタイ人間なので友人や同僚の助け無しでは生きていけとりませんが、他人の刺激や支えになって当たり前の年齢。
馬鹿なりに勉強していきます。



などと、出勤間際のご報告でした。

文章の師匠である元木くんが、
「他人の文章を書くって、他人が憑依するようなところがあるよ」
というような事を言っていたことがある。 

他人が書いたものを読みやすいように、(ある程度)辻褄が合うように整理する仕事。
多くは編集という作業なのだけど、書いた本人と読み手をつなぐ大事な仕事だ。

訳あって、親友の日記を編集している。

している、と書いたけど何度も挫折しているのが現実だ。
今日は時間をゆっくり取れたから、真っ向勝負で臨んだ。
惨敗とは言わないが、予定していた量の半分も行ってないのに気持ちが折れた。
そして言い訳するようにブログを書いている。


折れる理由は簡単。
客観性を失ってしまいそうになるからだ。
色んな思いを共有した友達だけに、他人事が自分事になっていく。
彼の思いを自分の思いが上回ろうとする。
それは本末転倒だ。
だから、折れる。

しかし友達には悪いけど、僕にとって大事な時間になり始めている。
悪戯に過ぎる時間を考えると、いい加減でプロに任せるべきなのかもしれないけれど。
Kちゃん、もう少し預からせて下さい。

小学生の頃、作文が下手だった。 
苦手ではなく「下手」だった。
妄想小学生だった僕は、頭の中でお話を作る事が好きで嘘をつくことも(楽しい)と思っていた。
そのせいか、自分の言いたいことをただ書き散らしてしまう。
誰に伝えたいのか?
作文コンクールのまだ見ぬ審査員に、教育委員会のセンセイに伝える?
テーマになっている人に?

それがいつも読み手になった自分へ向けて書いてしまう。
自分への評価はアマイ。
ゆえに上達しない。



去年、ライターの元木哲三に「文章を書く仕事をさせて欲しい」と頼み込み、書き起こしや取材に同行させてもらい数万字を書かせてもらった。仕事としては拙く、迷惑をかけたのではないかと実は落ち込んでいたのだけど、自分にとっては素晴らしい経験だった。

ブログやtwitterやmixi、最近ではFacebookと書き散らせば散らすほど、所在が無い事を知るこの頃。自分のモノサシやココロはお付き合いでコロコロ変わる。
そのうち何が伝えたかったのか、ただチラリと裸を見せたかったのか、ポロリとパンツからこぼしたっかったのか、よくわからなくなる。
弾けないギターをかき鳴らす酔っぱらいによく似ている。

元木くんや栗田さんに教えてもらった文章のルール。それは楽器のそれと同じだ。
(あんまりちゃんと覚えてないけど)文章にもコードやペンタトニックがある。
美しい和音を奏でるにはルールがある。
知れば知るほど面白い。



妄想中年である今の僕は小学生の頃よりタチが悪く、下手を楽しむようになってきた。
文章術の本を立ち読みすることはあるけど、早く中身を忘れようと思ってしまう。

それは自分の和音を発見することに喜びがあるからだ。
テーマや世の中を通じて自分を知ることも楽しい。
そして自分の中にも和音が在る事を知るとすっごく人生は楽しい。
(それ以外は本当につまらない)



プロフェッショナルでなくても書くという表現は素晴らしい。
元木くん、ありがとう。
でも悔しいから御礼はこれくらいにしときます。

元木くんが経営する会社が運営している「文章の学校」。
福岡にお住まいの方は、是非参加してみるといいですよ。

僕にとっては小憎たらしい高校の後輩ですが、プロフェッショナルな物書き・元木哲三、ライティングマスター・栗田真二郎と、いつ会っても気持ちが良いスタッフさんがいます。


書くということは・・・
そろそろ出ないと会議に間に合わないということでした・・。

行ってきます!


最後のチャーを聴いたのは三月十日の夜だった 
アップルジュースを飲みながら彼女が来るのを待っていた 
失った 
僕は失った 
恋の指定席 

会社勤めは長いけど横領したのは初めてさ 
罪悪感と緊張感 そいつが恋の正体さ 
笑われた 
君に笑われた 
まるで石の虫 

僕の小さなマスコミや 僕の小さな警察は 
雨に打たれて流された 
そいつは誰かのせいじゃない 
歩いてた 
夜を歩いてた 
僕の二本足 

一から十まで揃ってる 会社支給の刑務所で 
あの日のチャーを思い出す 心は電気で出来ている 
震えてる 
僕の指 
きっとチャーになる  

チカラさんの文章講座向けで書いたものです。
出来の善し悪しは分かりませんが、書きたかったテーマでした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 君達が大きくなる前に話しておきたい事がありました。俺は話す機会をずっと逃してきたせいか、こうやって手紙を書いておいて、いつか渡そうと思っています。
 話しておきたい事というのは他でもありません。なぜ、君達が生まれてきたか、という事です。もう大人みたいなものだから、俺と君達の母親が惚れ合って(と、思います)セックスをしたから産まれたという事は分かるでしょう。

 しかし、それだけでヒトは産まれたのではありません。アクビやオナラみたいに機能の1つとして生まれるものでもありません。そこには母親や君達自身の「意志」がありました。君達の意志は小さくて母親がかろうじて感じることができるくらいのものでした。医者だって見逃してしまうくらい小さなものです。そしてこの世に産まれてからは、俺にも感じることができるようになりました。俺も母親である彼女もその「意志」を大きく強いものにしようと、下手くそな人生をやり繰りしながら生きてきました。

 今、君達の意志はどうなっているでしょうか。友達や先生や上司に磨かれて強くなっているでしょうか。それとも社会の中でフラフラと揺れているでしょうか。反対に自分で無理矢理大きくして、他人に押し付けたりしているでしょうか。
 残念だけれど、俺には君達の人生を大きく揺さぶるチカラがありません。ただ飢える事無く、可能な限り健康であるように守る事が精一杯です。君達は自らの手で自分の「意志」を育て、友達と共有していく事でしょう。

 俺が伝えたい事は正にその事です。君達が育てる「意志」は他人と影響し合うものです。それが未来です。俺も君達から影響されて自分の意志、自分の未来を育てています。だから怖がらず、恐れずにたくさんの人と自分の意志を育てて下さい。世の中が暗くなんだか寒く感じる時も育てて下さい。それはきっと愛というものです。

 臆病な俺が強く生きてこれたのも君達のおかげです。ありがとう。 

(下記の文章はチカラさんで稽古をつけてもらっている文章講座における習作です。) 

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 人を初めて好きになったのは小学校2年生の時。放課後にその子と遊ぶのが楽しみだった。その頃は性についてなんの知識も準備も無かったから、放課後に自宅に呼んで「毛布で彼女を丸め込む」という荒業に出たものだ。後日それを知った彼女の親御さんからやんわりとした注意の電話がかかってきた。「あの子はちょっとおかしいから……」と引き裂かれ、僕はひとり布団で泣いた。

 しかしこんなものは失恋ではない。中学の夏休み前になると手当たり次第に「告白」した。もうなんとなく性の正体を知っていたから行動は加速する。

「つきあって」

「イヤ」

 まるで、カードゲームのように繰り返した。

 ただ、これも失恋ではない。


 失恋とは思いを寄せる相手を失って初めて気づく「愛情の大きさ」の単位だ。恋をしている時は相手との距離を測っているけれど、恋が終わった後に丁度いいサイズを知るのだ。

 寂しくてたまらなくても丁度いいサイズを探して埋めたりはしない。

 埋めると恋愛じゃなくなるから、失恋さえもできない。



 一番最後に失恋したのはいつだったかなあ。


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